高麗人参の存在を日本が知るまで

日本に最初に伝わったのは昔の記録を探ってみると、天平11年(739年)に渤海の文王が国書と一緒に使節の己珍蒙に高麗人参30斤を聖武天皇へ届けさせたのが最初だと伝えられています。
「続日本記」によれば、渤海からの国使は神亀4年から天平勝宝8年(727~756年)までの間に3回来日し、遺渤海使は2回派遣されていることから、少なくみても100斤以上の高麗人参が日本へ渡ってきたと推測されます。
その後も足利時代、室町幕府に訪れた朝鮮の使節団は、国交贈品として高麗人参を持ち寄り、日本ではそれに対して銀や様々な贈答品を国交回礼品として贈っています。
高価な銀にも相当する程、大変貴重な植物だったと推定されます。

このように日本へ渡ってきた経緯からもわかるとおり、地理的にも大変近い朝鮮半島と日本の交流は遠い昔からずっと続いていたのです。
その国交の大切な役割をしていたのが、高麗人参です。
長年の間、礼物、交易品として何度も日本へ持ち込まれていましたが、日本で栽培され始めるのはやっと徳川時代の八代目将軍吉宗の時代になってからといった風に比較的現代に近いようです。

徳川幕府では、生根や種子を朝鮮半島や中国から持ち帰っては栽培を試みながら研究を繰り返し、やっと享保14年(1729年)に移植に成功します。
幕府はそれから各地の大名達へ高麗人参の種を分け与えて栽培法を伝授していきながら、各藩へ栽培を奨励していったのです。
当時は、この幕府から下賜された高麗人参の事を御種人参と呼んでいました。

このようにして日本中へと伝わっていったのですが、当時は万能薬として大変貴重な物でした。
日本国内では特に会津地方(福島県)が栽培が盛んなようです。
会津藩にはなんと御種人参の役場が築けられていた程、その栽培に力を入れていました。
当時はそれは大変高価な物だったので、藩にとっては御種人参の栽培は大切な財源だったのです。